空総229(運輸省航空局総務課発229号)伝説のパイロット
空総229
これは空港運用時間を定めた基となる公文書です。
例えば羽田は今は24時間空港だと思いますが、
以前は6時~22時とかだった記憶があります。
羽田管制空域は行き交う飛行機が物凄く多く複雑です。
管制官なしでは操縦はとてもできないでしょう。
さらに羽田周辺では騒音等に対する住民感情も強く
あり、羽田空港事務所に騒音対策課があります。
そりゃあそうですよね。
近くに住む人たちにとっては飛行機の騒音は
迷惑でしかないですものね。
事故の不安もありますし。
これはいまだ難しい問題だと思います。
先日までちょっと早起きしていた時がありました。
朝の一番機は5時台だったかな。
(フライトレーダー見ると分かります。)
「JALエイトフォーナイナー(JAL849便)〇×△□」
などの航空無線を聞きたいが為の早起きです。
今だ聞くに至ってません。
無線機が悪いのかアンテナが悪いのか?
聞けるようにあれこれ思案中です。
星がまだ出てるような時間に早起きしたお陰で、
ヒシャクの形の北斗七星がやっと分かりました。
私はとんと星座が苦手なんです。
毎朝見てました。
太古の昔から変わらずあって、北斗七星を頼りに航海
したのかなとか思い眺めてました。
(それにしても寒かった~)
暫くすると山梨上空は富士山と甲府盆地上空を
西に向かう飛行機が、ほぼ一直線に並んで飛行します。
これもフライトレーダーで分かります。
これはWPI飛行と言って、航空援助無線施設上空は飛ばず
例えば羽田ー座間ー知多半島ー名古屋ー広島空港と
ポイントを打つ自動操縦です。
離陸すると直ぐにまだ本当に滑走路が見えているのに、
「オート!」とキャプテン(機長)が指示して、
子パイ(副操縦士)が自動操縦に切り替えます。
山梨上空では一直線に並んだ飛行機が地上から見えます。
気象条件で飛行機雲が並んで見えます。
あんなに接近して大丈夫なのかなあと心配になるかも
しれませんね。
航空路の幅は約20ノーチカルマイルで幅は約40kmだったかなー
(そう、けっこう距離あるんです)
西行きの高度(アルチチュード)は確か20000m(偶数と決められている。)
東行きは奇数で例えば19000m、逆かもしれません。
航空路は名前がついています。
例えば山梨上空ですと「G9」
ゴルゴナイナーと呼んでいたような?
伝説のパイロット
話が脱線し過ぎですが、
三宅島空港事務所に勤務していた頃、羽田からYS11
に乗って島に帰るときのことです。
余談ですが、YS11は横浜杉田で11日に会いましょう!の略。
タラップを上がると直ぐに
「CAB(運輸省航空局の略)の東條さん操縦席までお越しください」
とアナウンスがありました。
何だろう?
スチュワーデスさん(今はキャビンアテンダントかな)が
「Y機長が操縦席でお呼びです」
と操縦室に案内されました。
知り合いのキャプテン(機長)でした。
この方はNKA(日本近距離エアウエイ)のパイロット。
確かゼロ戦に乗っていた方で、激戦地から帰還された方です。
(私が20代の頃の話なんで〇十年昔の話です)
Y機長は顔半分が、ケロイドの跡がありました。
(大変失礼ですが、あえて書かせていただきました。ごめんなさい。)
どんな激戦を潜り抜けて生還されたのでしょうか。
このような方々のお陰で今の日本があるんだと実感
したものでした。
ここからが本題です。
冬の三宅島空港は西風が強く簡単には着陸出来ません。
着陸時は車輪が滑走路にタッチした時に、
強い追い風の為ブレーキが効きません。
空港に降りられないのです。
普通は3回ぐらいチャレンジします。
若いパイロットだとほぼ降りられません。
タッチアンドゴーとなります。
無情にも機内では「リターンートゥートーキョー」の
アナウンスが流れ、羽田に戻ります。
あとは8時間かけての竹芝桟橋から船での帰島となります。
飛行機だと30分ぐらいで帰れるのに^^;
当時は島民は船の島民割引きがありました。
またまた脱線しました^^;
ではゼロ戦上がりのキャプテンの神業をご紹介しますね!
Yキャプテン(機長)は西風を出来るだけよけながら
海面すれすれを滑空します。
西風で波荒い海面が窓から良く見えました。
ドキドキしましたっけ。
そして、空港直前で舵をとり、追い風を避け
空港に着陸させます。
正に神業です!
ゼロ戦パイロット生き残りの神業と呼ばせてください。
ところで、Yキャプテンで羽田に向かうときには、
サービスで島一周の遊覧飛行付きがありましたっけ♫
当時、羽田を出発する際は、現地強風の場合は
羽田に戻る事があるとの条件付きのフライトでした。
ごきげんよう。